前回、黄檗売茶流の茶摘祭に参加したことお話致しましたが、
この煎茶道の祖が、茶神、売茶翁です。
彼は、黄檗宗という禅宗の高僧でしたが、当時薬として珍重された茶を安値で売り歩きながら、貧しい人たちに禅の教えを説いて歩いた人物でした。
彼に弟子入りし、幾度もその姿を描いたのが伊藤若冲です。
描いた対象のほとんどが自然の生き物で、人物は売茶翁以外ほぼ描いていなかったことからも、
いかに若冲が彼を尊敬していたかがわかります。
高僧としての名利を求めず、貧しい人に教えと癒やしを届けることを選んだその生き方に、
ただひたすら自然の姿を描き続けた求道者、若冲の心が響き合ったのでしょうか。
そして若冲は、仏の世界を表すものとして、あの有名な動植綵絵を描きます。
仏画には、通常仏の姿や僧の姿などが描かれますが、若冲の動植綵絵は、すべてが自然の動物や植物で描かれています。
東京で観て参りましたが、あまりの美しさと細密で繊細な表現に圧倒されました。
若冲が全身全霊で自然と向き合い、その力強さ、美しさ、神秘、躍動する生命力を捉え、表現したことが伝わってきて、言葉が出ませんでした。
彼は、この30枚の動植綵絵を描く前に、何故か京都の街から姿を消し、
丹波の山奥に2年ほど隠棲していたそうです。
ただ一人、ひっそりと山の中で暮らしながら、自然を見つめ、その鼓動に耳を澄ませていたのでしょうか。その静かな内省の時を経なければ、あの華麗な動植綵絵ができあがることは無かったのかもしれません。
今、私が暮らしているのは丹波の入り口の辺りです。
京都の町中と違って、華やかさはほとんどありませんが、
自然の息吹をとても強く感じることが度々です。
ソメイヨシノはあまり見かけませんが、
春の黄緑色の山に、のびのびと桃色の山桜が咲く姿は、何にもまして心躍りますし、
初夏の新緑の中に、山藤の紫がくっきりと浮かぶ様子は、心が透き通っていくような清々しい風情です。鶯の声も高く澄み渡った空に響きます。
少しでも若冲の心を感じられたかも、と思う初夏の山里の日々です。